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有機とはなんだったのか

タネのほとんどを海外から購入し、畑に入れる肥料や堆肥は、輸入された食品や家畜飼料の残りカスや、輸入された資材で栽培された慣行野菜のあまりものを使っている状況に、有機農業の「持続可能性」という本来的な部分との矛盾を感じていました。
日本の食料自給率は約30%ほど言われていますが、何を作るためにも資源は必要で、私たちはそのほとんどを海外からの輸入頼っています。化学肥料や農薬、燃料や石油製品なしには30%を維持することもままならないでしょう。私たち有機農家でさえ、海外資源の恩恵に預かっているのは事実です。海外からの潤沢な輸入飼料のおかげで家畜糞尿を使用できるし、輸入種子のおかげで毎年タネを購入できる。食物を輸入しているおかげで年間1000万トンを超える食品廃棄物を自由に使うことができる。燃料を使えばそうした物資を運搬する手段もある。そういう意味では有機を含めた農業全体では全く自給ができないのが現状なのだと思います。
いいか悪いかは別にして、つまりはトヨタが車を売るおかげで農業ができるという話です。極端な例ですが(笑)
結局のところ、上流には資源生産をしている国があって、その下流に(国の内外を問わず)慣行農業があって、そのさらに下流には私たち有機農家がいる。 私たちは、上から流れてくるものをただ消費し続けるという一本の川の流れの中にいつの間にか取り込まれ、循環を旨としていた有機でさえ本質的には慣行農業となんら変わらいものになってしまったのではないか。と思うのです。
上流から水が流れてこなくなれば、当然私たちの農業も成り立たない。それがありありと想像できてしまうのです。
元々は慣行農業を否定してきた有機農業が、大枠で見ると慣行農業の下流に属してしまっている。こんな皮肉なことはないなと。

では有機農業とは一体なんなのか。
やっぱり、持続可能な農業やそれを支える社会を作ろうとすることに目的があり、その結果選択されたものを有機農業と呼ぶのだと思います。つまり、有機農業はただの方法論。
昨今、様々な農法が取り沙汰されていますが、消費者からするとチンプンカンプンだと思います。でも実は、有機でなければよくないとか、自然栽培の方が良いとか、そういうのは上辺の問題で、何を目的にやっているのかが一番大事な部分なんだと思います。

私たちは、その目的の部分をもう一度見つめ直し、地域資源のこと、その中で成り立つ農法(経営的にも資源的にも環境的にも)の事を常に考えて農業に向き合っています。

「贄の森」

「贄(にえ)の森」 獣害とその対策のための野生動物の駆除を一手に引き受ける猟友会。その現場を追ったラジオドキュメンタリー。 第42回放送文化基金賞 ラジオ部門 最優秀賞作品。

先日(と言っても10月ごろなんですが)、NHKのラジオ第一で放送されていたのです。 ちょうど都内のマルシェへの道中。小川町にとってタイムリーな事で、思わず聞き入ってしまいました。
そして獣害が増えることに対しては少なからずの誤解があったことに気づいたので、備忘録がわりに、内容と気付いたことをちょっと(?)まとめてみたいと思います。

ー 前提として このドキュメンタリーは岐阜県のどこかの話です(聞き逃してしまった)。番組の地域の獣害や獣、野生動物と云うと、鹿が中心的のようです。 こういう現実があるんだという形で受け止めてもらえばと思います。

ー まず野生動物がなぜ増えているのか

 獣の増加ついて岐阜大学特任教授の話。 先生の話によると、獣が増える原因は主に2つ考えられる、と。 一つ目は政策的要因。 それは明治、大正期に遡ります。この時代、西洋化が進む中で、肉食が解禁され、毛皮などの輸出が増えた一方で、それに伴う乱獲が横行し野生動物が激減した時代でもありました。その頃の野生動物の数は、歴史的にも例外的な少なさだったのだというのです。そして野生動物の絶滅を恐れた当時の政府は、保護一辺倒の政策を進めることになる。すると一転、野生動物は爆発的に増え始めます。 しかし、その狩猟政策はごく最近(三、四年前?)まで続くことになります。行政例の如く実害がないと政策を方向転換できず、やっと対策が始まった時には時すでに遅し、猟友会が物理的に可能な狩猟数を野生動物の繁殖スピードが追い越す事態になってしまいました。それが野生動物が増えている一つ目の要因。
 そしてもう一つは環境要因。 昔の里山には禿山が多く、それは野生動物にとって格好の餌場となっていました。 しかし、戦後の杉、ヒノキなどの集中的な植林や手入れする者がいなくなったことで、禿山は森として復活。実は今、日本の森林率は過去に遡って見ても最高になっているというのです。さらには、更新されないまま大きく育った樹木が山を覆い、日当たりが悪くなったことで下草が育たなくなった。これも餌場が減少する原因になります。山の餌場が少なくなれば、野生動物が餌を求めて里に降りてくるきっかけになる。そして農地に耕作放棄地があれば、そこは獣たちにとって格好の隠れ家となる。その結果、農作物を食べ荒らすことに繋がり、個体数が増えるという悪循環になってしまったと言うのです。 その二つが同時に起こっていることが、近年の獣害につながっているという話でした。 私もそうだったのですが、今まで「獣のあり方」の理想像は無意識に明治〜戦前くらいを指して、比して現状を問題視する向きが強かったとおもいます。実は今も昔も異常な状態であったというのは恥ずかしながら初めて知りました。

ー 番組では何を語っているか

 中盤あたりで、間違えて捕獲(錯誤捕獲)されたクマを巡って、放すか、殺すかの応酬がありました。クマの保護を訴え、人間と自然は共生すべきと云い諭す動物愛護団体に対し、人と農産物への危害を訴え、駆除を主張する山主と県職員。そして警察。それを遠巻きにして、駆除のために銃を手にする猟友会の猟師。 自然を守るべきという愛護団体の他人事の様な言い方に、山主が激昂してこんな言葉を浴びせていた。「あなたたちは我々の生活する場所に獣が来ることの怖さを知らない。熊一頭を助けるのが自然保護というなら、あなたこの山を見てどう思うのですか。 私らが子供の頃は、椎茸や松茸や採り放題だった。自然を守るというなら、自分らの私財でそういう山を作って、百頭でも、千頭でも、万頭でも増やしたらいい。自分の私財で!」と。 この山主の話は田舎に住む側としてはとてもよく分かります。私自身、米や大豆が食べられて良い気分になったことはありません。しかし迷惑だから殺すというのも腑に落ちなくて、人間が自然環境とどう付き合うかという部分が欠けてしまうように感じます。逆に、自然保護の方には、生態系の中に人間が不在なのです。一見正反対の立場のように感じるのだけれども、どちらも「人間」の存在が「自然」とは別の枠の中にあるように語っているような気がしてきます。 当然、そんな議論には先なんてあるはずもなく、結局6時間もこのやり取りは続き、最後には警察が入って保護団体を排除する形になりました。ただ守る、ただ殺すだけでは成り立たない現実。 そして最後まで沈黙していた猟師がそのクマに手をかけることになる。 なぜ現場の猟師は黙していたのか。そこがこの番組の原点です。

ー 猟師の苦悩

 「止めさし」という行為があります。獣にとどめを刺すという意味です。番組には、鹿のその瞬間が収められていました。止めさしの刹那、鹿の最後の声が森に響く。 そして猟師が語った言葉 「鹿の目を見ますか。ほら綺麗な目をしてる。こんな綺麗な目をしてる。」 その鹿は、「駆除」される鹿でした。畑を荒らし、危ないからと言う理由で駆除を依頼された猟師。その猟師が語るに、猟師にとって「駆除」は苦痛でしかないのだという。「猟」とは別物だなんだ、と。 駆除された獣は廃棄される。しかも処理しきれないから、役場に確認をもらったのち、持って帰って穴を掘って埋める。猟師の方が頻りに「処理」という言葉で一連の作業を表現していたことが印象的でした。 自然という一つの枠組みから、その再生スピードと調和するように資源を利用してきた人間。生かされ、生かしあう(死についても同じように考えたい)という対等の存在として自然があった。猟はその範疇の出来事。 しかし、人間の生活が脅かされるという理由で、ただ殺すために殺すのが「駆除」。それを猟師は「無駄な殺生」と言いながらも、人の生活を守るためにせざるを得ないことも理解していた。 猟師は、本来の猟のあり方と、人の生活を守るための現実との間で板挟みになっていました。 「鹿の目を見るか?」という言葉は、そんな葛藤から出た言葉でした。
 しかし駆除はあとをたたない。そればかりかノルマはどんどん膨れ上がる。 手のつけようがないほどに増えすぎてしまった野生動物という問題。年間数千頭というレベルで獣害駆除の責務が課せられている猟友会。 人々の自然に対する無関心が招いたとも言えるのに、そのツケが猟師に押し付けられている矛盾。
 私たちは野生動物と対峙する時に、猟師という手段しか持ち合わせていないのです。その為に奪われる猟のあり方。 そして私たちは、(この内容が本質なのかという以前に)全く気に留めずにいるという現実を突きつけられました。 番組の猟友会は、通報があれば本業を投げ出して駆除に駆けつけていた。見返りがあるわけではない。高齢化が進み、メンバーも足らない。 そんな現状の中、国は猟友会に代わって、有害鳥獣駆除を専門とする業者を募って駆除を行う、認定鳥獣捕獲等事業者制度を2015年に導入。これから、人間と自然との関係はどこへ向かおうとしているのか。と、そんな問いかけを残して番組は終わります。

「贄の森」の「贄」という言葉には2つの意味がると、制作にあたった監督はネットでの対談で語っていました。人間の生活を守るために大量に殺処分されようとしている野生動物と、そのために本来のあり方を奪われる猟師のことだと。 私たちにできることはなんだろうか、簡単なことではないけれど、真剣に向き合って答えを探すほかないのは確です。

(車を運転しながら聞いていたので、拙い記憶を元に書いています。間違いがございましたらご一報頂けるとありがたいです。)

番組制作:株式会社CBCラジオ

狐の松明

狐の松明 キツネノタイマツというキノコがトマトの畑に出現。 有機物の多い土壌に生えてくるキノコです。 畑に含まれる有機物を餌に、様々な菌が活動し、こうして運良くキノコの菌糸が発達すると、地上部に現れます。

 畑には様々な菌が生息しています。植物や動物への病原菌や、土中のミネラルなどの栄養分を糧にして独立して生息するもの、植物や細菌同士、驚くべきは、人間とも共生関係を築くものなど、多岐にわたります。
菌類の法則のようなものがあって、菌類はある一定以上まとまって繁殖すると、その特性が顕著になります。例えば味噌などの調味料は、麹菌を培養することによって多くのアミノ酸やビタミン類を生み出すという効果を得ます。同じように菌糸が発達すればキノコに、病原菌が優勢になれば植物も人も病気になるわけです。

 では、なぜ畑では土が味噌や納豆になったり、キノコ畑になったり、病気だらけにならないのか。それは、それら多種多用な菌類が一つ栄養を取り合ってせめぎ合うことで、特定の菌が発達しにくくなるためです。そうなることで、全体としてはバランスが取れ、安定した状況が作られているのです。

 昨今、植物や人間の病気を予防するために、殺菌、抗菌処理をすることが当たり前になっています。 しかし、殺菌をしたとしても、必ず生き残る菌は生き残り、餌があればまた繁殖を繰り返します。そしてそのうちに薬剤耐性を身につけ、消毒するたびに薬剤耐性を持っていない菌を乗り越えて爆発的に繁殖するようになる訳です。ちょうど、味噌を作るために、麹菌一色に仕込むように、同じようなことが病原菌にも起こる訳です。 実は、こんなことが起こらないように、慣行農業の世界では、違う農薬を順繰りに使って薬剤耐性菌を作らないように注意します。また、人間に処方される抗生物質などは、必ず医師の判断があるまで飲み続けるよう指導されます。これらは、薬剤耐性菌を作らないようにするためです。 しかし問題なのは、家庭用消毒剤や洗剤による中途半端な消毒、農薬の誤った使い方で、家庭レベルで薬剤耐性菌が作られる可能性があることではないでしょうか。 滅菌をするなら徹底的にすべきなのに、そうではない。洗剤などをはじめ、全ての消毒効果を謳った製品のTVCMでは、消毒効果を示すために「イメージ」とついた顕微鏡写真が示されますが、必ず生き残った菌が描写されている筈です。メーカーが菌を全滅できないことを認めている訳です。ボトルを一本買えば、少なくとも一本使い切るまで同じものを使い続けるのですから、これは一番あってはならないパターンで、薬剤耐性菌をせっせと作るようなものです。だから、排水溝の臭いはいつまでたっても取れないし、清潔な筈のキッチンで食中毒が起こり、逆を言えば汚ったない居酒屋が何十年も続けられる訳です。 菌の量を汚さというなら、単純に人間の消化管である大腸は最上級に汚れていることになってしまいます。手の菌やまな板やスポンジの菌なぞ、体の外にある菌になんて構っていられないほどに。しかし体の中に住まう菌が、共生関係を築き、あろうことか免疫機能の大半を担っているというのです。 地球上の生命の歴史は、四十億年前から始まった異種生物との共生の歴史です。その共生関係を断ち切ろうとする行いはいかがなものだろう。 とはいうものの、人類は火を使うことにより、人獣共通の病原菌から身を守ったり、抗生物質の発明や、ジェンナーの天然痘ワクチンなど、恩恵を受けた事は否めないわけです。 この矛盾をどう考えたら良いのか、まだわからない。 しかし、自分の商品を売るために、都合の良いところだけつまみ食いして、消費者を脅しの罠にはめようと待ち構えているのが見え見えのCMを見るといちいち辟易します。 こんなことだから、世の中歪んで行くのではなかろうか。 こんなことを、キノコから考えてみたり・・・。

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#秩父の山裾 – 田山花袋 – 2 –  新月(しんつき)の瀬と言われる津久根の梅 - そう言われるために何(ど)うしても本当の月の瀬と比較する気にはなるが、また月の瀬と比べては、その渓といい、その位置といい、またその梅といい、とても比べものにならないほど劣っているが、しかも東京付近の梅渓では、これでも優れた立派なものとしなければならなかった。無論、原村、蒲田、多摩川の吉野、あそこらの梅よりは、遥かに此方がすぐれているには相違いなかった。それにつけても思い出さるるのは、その大和の月の瀬の梅渓であった。  あの名張川ほどの生色を持っていいなくっても好いが、せめてはその越辺(おっぺ)川の谷がもう少し美しい瀬を持ち、もう少し潺湲(せんえん:さらさらと水の流れる様)とした流れを持ち、もう少し多い水量を持っていたならばと私は思った。梅も平地にばかり並べて栽(う)えられていたのでなしに、山の峽(かい)、山の狭間、谷の底なども白くして呉れていたならばと思った。  しかし、この梅渓が新月(しんつき)の瀬と言われる理由は私にもわからないではなかった。寛(実)際、四囲の山巒 - のんびりした、または緩やかに遼繞(りょうにょう)した、頂の斜面に形の好い松などの並んだ、所々に谷が深く入り込んださまは、まことに月の瀬に酷肖(こくしょう:よく似たさま)していた。「感じだけでは、何処か似てる。静かで、鷹揚で、のんびりとしている形は、関東の山とはちょっと思われない」こんなことを私の兄の方の男の子に言って聞かせた。 【来週に続く】 -ヒトコト-  月の瀬とは、奈良県の月ヶ瀬のことである。古くから有名な梅林があり、そこを月ヶ瀬梅林と呼び、現在でも名勝の一つに数えられ、明治31年には花袋も訪れている。 津久根の梅渓とは、今で言うところの越生梅林である。越生梅林は現在の埼玉県越生町にあり、関東でも随一の梅林である。都心からの近さもあり、手軽に楽しむには十分すぎるほどの景観を有していると思う。私も月ヶ瀬を知ってしまったら、物足らなく感じてしまうのだろうか。  花袋の紀行文は辛口だと聞いていたが、読んだ限りでは、飾り気なく、自分の思ったままを書いているように感じる。  花袋ほどの文豪だから、今でいえばテレビに劣らないほどの発信力がありそうだけど、そんな状況で今これを書いたら方々からクレームが飛んできそうで、ちょっと怖い。ここからはそんな面倒臭ささを感じさせない当時の自由さみたいなものが表れているような気がする。 SNSの様な情報の双方向性も考えものかもしれない。   花袋の描写は下げているからこその持ち上げ方に妙味があり、ストレートな文脈から「悪い感じ」がしないのは、さすが、というべきだろうか。  これを読んでいると、花袋が悪いという部分も楽しめるかもしれない。

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持続可能性に正しい認識を

農研機構に面白い研究が掲載されています。
慣行栽培においてのリン酸施肥量の削減技術ですが、見方によっては大変参考になります。

最近は肥料価格の高止まりに対応するため、購入肥料を少なく抑えつつ品質を上げるための技術が盛んに研究されるようになってきました。

植物における3大栄養素である窒素、リン酸、カリ。世界の農業はそれを化学肥料で補いながら農産物を生産しています。併しながらそれら化学肥料の原材料は一部の資源国が生産しており、日本はその原材料をほぼ100%輸入に頼っている国であることを知っておかねばなりません。

世界の人口増、生活スタイルの先進国化(肉食の増加)やバイオ燃料の普及が農産物の需要を増加させ、その需要を満たすための生産活動に化学肥料が投入されているのです。化学肥料の価格がここ数年で高止まりしているのは、そうした農産物需要の増加に伴って肥料の需要が高まった結果です。

実は、世界の殆どの農産物は天然鉱物資源に支えられているのです。
肥料に使われるリンもカリも鉱物資源であり、農業機械を動かすのにも石油が手放せない。

枯渇という終わりがあるのに、その上に私たちの食糧生産が成り立っている現状は非常に危険です。

残念ながら日本の多くの農業もその資源の恩恵を受けています。燃料や農薬、化学肥料だけでなく、有機栽培で使われる食品残渣や家畜糞尿なども、元をたどるとその上流に鉱物資源が投入されている場合がほとんどです(窒素は空気中の窒素を固定して作られるが、固定には電気が使われる。電気も石油やウランなど鉱物資源に拠る所が大きい)。

大量の食べ残しや食品廃棄物は将に近代農業(産業)が生み出したものではありますが、有機農業でそうした「あまりもの資源」を積極的に使うことが、「無駄をなくす」ということにつながるとは思えません。 なぜなら世界中から集まった鉱物資源を畑に投入する慣行農畜産業も、そこから出た無駄(食品ロスや家畜糞尿)を再利用する(一部)有機農業も根本的には変わらないと思うからです。
慣行も有機も、残念ながら現状では集めた鉱物資源を食べ物に変換する手段でしかなく、最終的には焼却され、埋め立てられる運命をたどります。畑はその通過点になっているのが今の農業を取巻いている状況なのだと思います。

人間は太古の昔から、永い永い取捨選択によって自然と共生してゆく知恵を身に着け、恩恵を享受してきました。人間と自然と、絶妙なバランスで折り合いを着けて生きるための知恵です。 先人たちは、人が自然を侵せば、自然は必ず自分たちの身に災厄をもたらすことを身を以て知っていました。 だからこそ自然を畏怖し神とさえ崇めていたのです。先人達は、神たる自然、山や川、土や植物を必要なだけ管理し、自然の生態系(神の理)を維持しつつ生きる為の素地を築き上げてきたのです。 人々の食は田畑を中心として無駄なく循環し、あらゆるものが土に還元しつつ、新たな糧を産んでいました。それがごく最近まで続いていたのです。

そして昨今、農業生産の問題解決の為に研究されている農業技術の多くが、伝統的に行われてきた農法に符号が向いているように感じます。 土着菌の有用性の解明や、輪作、間作、混植による生産性の向上、緑肥による施肥技術の開発等、これらは一度は表舞台から姿を消した知恵の一つでもあります。

それらが復活する向きは、一体何を示しているのでしょうか。

このまま化学肥料の原材料価格が上がるか、鉱物資源が枯渇すれば、高いと云われていた有機野菜の価格が逆転するのではないかと思います。その頃には慣行農業でも肥料の「有機化」が進み、有機農業も今よりずっと増えているはずです。併しながらその時代には、今のように有機資源を自由に使うことが難しくなります。すると利用出来る資源の生産地域がだんだんと狭まり、昔のような地域循環型の農畜産業に転換が進んでゆくと考えられます。そう考えると、先人たちの知恵がますます重要に思えてなりません。

併し数千年にもわたって連綿と受け継がれてきた知恵のリレーは、私たちの世代で途切れようとしているのです。
私たちは今一度、先人たちの農業と食文化を見直し、一方通行の資源に頼ることなく食糧を自給してゆくことを考える時期に差し掛かっているのかもしれません。
資源に頼っている限り、食糧生産のための原料を100%国外に頼っている日本の食糧自給率は0%に限りなく近いと云えます。

Columnーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
■窒素・リン・カリ、廃棄物から見た資源の行方
食品廃棄物は年間1700万トンに上り、焼却処分され最終処分場に埋め立てられる。処分されずに利用されているのは2割にとどまる。
然も、食品廃棄物には第一次産業つまり生産の現場で捨てられるものは含まれていない。規格外品の廃棄に始まり、殆どの生産現場で使われているF1種子は、一斉に発芽成長する野菜であり、出荷時期を逃した物はほぼ廃棄処分される。価格調整による廃棄も無視できない。(データがないのでこれ以上は控える)。
飼料を消費する畜産においては、可食部分や排泄物は殆どが農業に再利用されてきたが、農耕地では、環境容量を超えて過剰に、あるいは野積み、素ぼり状態で施用されることもあり、地下水汚染が新たな環境問題として浮かびあがっている。
湖水の富栄養化は、上流域の農畜産業の影響が大きい。
また、これら食品を消費した人間の排せつ物も、最終的には焼却され、埋め立てられている。

現状の肥料や農産物の輸入量はその殆どを捨てざるを得なくなるほど過大であると云える。

http://www.naro.affrc.go.jp/publicity_report/press/laboratory/harc/055975.html

「日本と原発」まとめ

日本と原発

日本と原発

先日、見に行った「日本と原発」。見たことを沢山の人と共有してほしいという事だったので、まとめてみようと思います。自分にとっても整理になるので。

以下内容は映画の内容のメモから書き起こしたものなので、間違いがあるかもしれません 続きを読む

牛糞について思うこと①

01昨今、牛糞の評価は賛否両論あり、環境保全型農業にとっては、糞に含まれる高濃度の窒素分が、環境負荷を高めたり、野菜の品質を下げてしまうため、余り評価されてきませんでした。

かく言う横田農場でも、20年ほど前に使った牛糞で玉ねぎが全滅して以降、自家の鶏以外の畜糞を使ってきませんでした。
そんな中、先日、地主のお爺さんと話していて、牛糞について思い直すことがあったのです。 続きを読む

遺伝子組み換え食物の現状と私たちにできること

私たちの種

昨日は「バンダナ、シヴァいのちの種を抱きしめて」というドキュメンタリーの上映会と、岡本よりたかさんによる遺伝子組み換え作物の講演があり、参加してきました。

岡本よりたかさんの遺伝子組み換え作物の解説を通して、シヴァ氏の訴えについて考えてみます。

遺伝子組み換え(以下GM)作物は、そもそもバイオテクノロジー企業が世界の種子市場を独占するために商業利用したものであり、様々な問題が指摘されながらも日本に輸入され、殆どの一般家庭の食卓に供されている作物です。 続きを読む