「贄(にえ)の森」 獣害とその対策のための野生動物の駆除を一手に引き受ける猟友会。その現場を追ったラジオドキュメンタリー。 第42回放送文化基金賞 ラジオ部門 最優秀賞作品。 先日(と言っても10月ごろなんですが)、NHKのラジオ第一で放送されていたのです。 ちょうど都内のマルシェへの道中。小川町にとってタイムリーな事で、思わず聞き入ってしまいました。 そして獣害が増えることに対しては少なからずの誤解があったことに気づいたので、備忘録がわりに、内容と気付いたことをちょっと(?)まとめてみたいと思います。 ー 前提として このドキュメンタリーは岐阜県のどこかの話です(聞き逃してしまった)。番組の地域の獣害や獣、野生動物と云うと、鹿が中心的のようです。 その上で、必ずしもこの記事を読んだ方の地域が当てはまるわけではないことを断らせて下さい。 こういう現実があるんだという形で受け止めてもらえばと思います。 ー まず野生動物がなぜ増えているのか 獣の増加ついて岐阜大学特任教授の話。 先生の話によると、獣が増える原因は主に2つ考えられる、と。 一つ目は政策的要因。 それは明治、大正期に遡ります。この時代、西洋化が進む中で、肉食が解禁され、毛皮などの輸出が増えた一方で、それに伴う乱獲が横行し野生動物が激減した時代でもありました。その頃の野生動物の数は、歴史的にも例外的な少なさだったのだというのです。そして野生動物の絶滅を恐れた当時の政府は、保護一辺倒の政策を進めることになる。すると一転、野生動物は爆発的に増え始めます。 しかし、その狩猟政策はごく最近(三、四年前?)まで続くことになります。行政例の如く実害がないと政策を方向転換できず、やっと対策が始まった時には時すでに遅し、猟友会が物理的に可能な狩猟数を野生動物の繁殖スピードが追い越す事態になってしまいました。それが野生動物が増えている一つ目の要因。 そしてもう一つは環境要因。 昔の里山には禿山が多く、それは野生動物にとって格好の餌場となっていました。 しかし、戦後の杉、ヒノキなどの集中的な植林や手入れする者がいなくなったことで、禿山は森として復活。実は今、日本の森林率は過去に遡って見ても最高になっているというのです。さらには、更新されないまま大きく育った樹木が山を覆い、日当たりが悪くなったことで下草が育たなくなった。これも餌場が減少する原因になります。山の餌場が少なくなれば、野生動物が餌を求めて里に降りてくるきっかけになる。そして農地に耕作放棄地があれば、そこは獣たちにとって格好の隠れ家となる。その結果、農作物を食べ荒らすことに繋がり、個体数が増えるという悪循環になってしまったと言うのです。 その二つが同時に起こっていることが、近年の獣害につながっているという話でした。 私もそうだったのですが、今まで「獣のあり方」の理想像は無意識に明治〜戦前くらいを指して、比して現状を問題視する向きが強かったとおもいます。実は今も昔も異常な状態であったというのは恥ずかしながら初めて知りました。 ー 番組では何を語っているか。 中盤あたりで、間違えて捕獲(錯誤捕獲)されたクマを巡って、放すか、殺すかの応酬がありました。クマの保護を訴え、人間と自然は共生すべきと云い諭す動物愛護団体に対し、人と農産物への危害を訴え、駆除を主張する山主と県職員。そして警察。それを遠巻きにして、駆除のために銃を手にする猟友会の猟師。 自然を守るべきという愛護団体の他人事の様な言い方に、山主が激昂してこんな言葉を浴びせていた。「あなたたちは我々の生活する場所に獣が来ることの怖さを知らない。熊一頭を助けるのが自然保護というなら、あなたこの山を見てどう思うのですか。 私らが子供の頃は、椎茸や松茸や採り放題だった。自然を守るというなら、自分らの私財でそういう山を作って、百頭でも、千頭でも、万頭でも増やしたらいい。自分の私財で!」と。 この山主の話は田舎に住む側としてはとてもよく分かります。私自身、米や大豆が食べられて良い気分になったことはありません。しかし迷惑だから殺すというのも腑に落ちなくて、人間が自然環境とどう付き合うかという部分が欠けてしまうように感じます。逆に、自然保護の方には、生態系の中に人間が不在なのです。一見正反対の立場のように感じるのだけれども、どちらも「人間」の存在が「自然」とは別の枠の中にあるように語っているような気がしてきます。 当然、そんな議論には先なんてあるはずもなく、結局6時間もこのやり取りは続き、最後には警察が入って保護団体を排除する形になりました。ただ守る、ただ殺すだけでは成り立たない現実。 そして最後まで沈黙していた猟師がそのクマに手をかけることになる。 なぜ現場の猟師は黙していたのか。そこがこの番組の原点です。 ー 猟師の苦悩 「止めさし」という行為があります。獣にとどめを刺すという意味です。番組には、鹿のその瞬間が収められていました。止めさしの刹那、鹿の最後の声が森に響く。 そして猟師が語った言葉 「鹿の目を見ますか。ほら綺麗な目をしてる。こんな綺麗な目をしてる。」 その鹿は、「駆除」される鹿でした。畑を荒らし、危ないからと言う理由で駆除を依頼された猟師。その猟師が語るに、猟師にとって「駆除」は苦痛でしかないのだという。「猟」とは別物だなんだ、と。 駆除された獣は廃棄される。しかも処理しきれないから、役場に確認をもらったのち、持って帰って穴を掘って埋める。猟師の方が頻りに「処理」という言葉で一連の作業を表現していたことが印象的でした。 自然という一つの枠組みから、その再生スピードと調和するように資源を利用してきた人間。生かされ、生かしあう(死についても同じように考えたい)という対等の存在として自然があった。猟はその範疇の出来事。 しかし、人間の生活が脅かされるという理由で、ただ殺すために殺すのが「駆除」。それを猟師は「無駄な殺生」と言いながらも、人の生活を守るためにせざるを得ないことも理解していた。 猟師は、本来の猟のあり方と、人の生活を守るための現実との間で板挟みになっていました。 「鹿の目を見るか?」という言葉は、そんな葛藤から出た言葉でした。 しかし、駆除はあとをたたない。そればかりかノルマはどんどん膨れ上がる。 手のつけようがないほどに増えすぎてしまった野生動物という問題。年間数千頭というレベルで獣害駆除の責務が課せられている猟友会。 人々の自然に対する無関心が招いたとも言えるのに、そのツケが猟師に押し付けられている矛盾。 私たちは野生動物と対峙する時に、猟師という手段しか持ち合わせていないのです。その為に奪われる猟のあり方。 そして私たちは、(この内容が本質なのかという以前に)全く気に留めずにいるという現実を突きつけられました。 番組の猟友会は、通報があれば本業を投げ出して駆除に駆けつけていた。見返りがあるわけではない。高齢化が進み、メンバーも足らない。 そんな現状の中、国は、猟友会に代わって、有害鳥獣駆除を専門とする業者を募って駆除を行う、認定鳥獣捕獲等事業者制度を2015年に導入。これから、人間と自然との関係はどこへ向かおうとしているのでしょうか。と、そんな問いかけを残して番組は終わります。 「贄の森」の「贄」という言葉には2つの意味がると、制作にあたった監督はネットでの対談で語っていました。人間の生活を守るために大量に殺処分されようとしている野生動物と、そのために本来のあり方を奪われる猟師のことだと。 私たちにできることはなんだろうか、簡単なことではないけれど、真剣に向き合って答えを探すほかないのは確です。 (車を運転しながら聞いていたので、拙い記憶を元に書いています。間違いがございましたらご一報頂けるとありがたいです。) 番組情報:http://ift.tt/2diuZXL 写真は先日罠にかかったイノシシ

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